かつて江戸の飲み水として重要な役割を果たしていたのが玉川上水です。
現在は一部を東京都水道局の水道施設として利用する以外には、小川になっていたり、または埋め立てて土地として使われています。
江戸時代に開削された玉川上水の歴史をご紹介します。
杉並区にある玉川上水の歴史
江戸城に徳川家康が入城後、小石川上水を開削し開きました。
徳川家光の時代になると、参勤交代によって江戸の人口は増加し、小石川上水だけでは人々の飲料水が足りなくなります。
江戸城の高台は水が届かないこともあり、幕府は承応2年である1653年に玉川上水を作ることを決定しました。
<玉川上水の開削>
工事請負人は庄右衛門、清右衛門の兄弟に決定し、工事総奉行は老中松平伊豆守信綱、水道奉行は伊奈半十郎忠治に命じます。
1653年4月4日に着工し、8ヶ月後の11月15日に水路が完成しました。
羽村取水口から四谷大木戸まで、全長は約43km、標高差は約92mの水路であり、標高差を利用した導水路です。
翌年6月には、虎ノ門までの地下に配水路を完成させ、江戸城の他に赤坂や四谷の一帯に給水開始します。
工事では2度の失敗があったと記録されていますが、設計をして取水口を決定したことで成功に導いています。
その後は玉川上水は分水され、各地に水を運びます。
工事を請け負った兄弟は、玉川上水を完成させた功績によって、玉川姓を名乗ることを許されました。
羽村市には、玉川兄弟の像が設置されており、どのような人だったか見ることができます。
近代水道の建設と玉川上水の廃止
明治維新によって、江戸は東京に変わります。
玉川上水は末端の木樋に汚水が入るようになっており、しばしばコレラが流行します。
そのために、浄水場で濾過し加圧給水する近代水道の建設が急務となります。
玉川上水の水路をそのまま使用し、代田橋付近から淀橋浄水場までの水路を建設し、明治31年の1898年に近代水道として神田と日本橋方面に給水を始めました。
上水道として使用されていた玉川上水は、浄水場への導水路として使われるようになります。
長年使われてきた玉川上水は、昭和38年の1963年に東村山浄水場の完成によって役割はほとんど終了し、わずかな分水への水の供給も昭和46年である1971年に終了しました。
しばらく流れの途絶えていた玉川上水ですが、人々の尽力があり、昭和61年の1986年に清流復活所業で流れを取り戻します。
この復活事業によって、小平監視所から杉並区の浅間橋の短い区間ですが、流れが蘇ります。
まとめ
玉川上水は江戸時代には、人々の飲み水としてなくてはならない存在でした。
近代になると浄水場の完成によって、玉川上水は役割を終えます。
昭和になると、復活事業によってわずかな区間ですが、玉川上水の流れが蘇りました。
東京の発展を支えた上水として、現在は国の史跡に指定にされています。
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